外部記憶と化したWebから生成AIを通じて情報を取り出すとき、何が起こっているのか

検索によって、Webは事実上の外部記憶と化した。そこから情報を取り出す作業まで、いまは生成AIに頼めるようになっている。だが、その先で、何を答えとするかを選ぶ判断まで委ねてしまってよいのか。

外部記憶と化したWebから生成AIを通じて情報を取り出すとき、何が起こっているのか
Photo by Zulfugar Karimov / Unsplash

フラッシュメモリが記憶を手のひらに収めた

以前、記憶媒体の変遷をたどった記事で、フラッシュメモリの登場について触れた。それ以前、パソコンの中で記憶を担っていたのはハードディスクだった。

ハードディスクは、円盤を回し、その上を読み書きヘッドが物理的に移動して目的の場所を探す。この物理的な移動があるぶん、機構としては時間がかかりやすい。

一方、フラッシュメモリには、動く部品がない。データは電気的に目的の場所へ直接読み書きされる。円盤の回転やヘッドの移動という物理的な動作がないぶん、機構としては速くなりやすい。可動部がないため、モーターやヘッドの機構を組み込む必要がなく小型化もしやすい。この速さと小ささによってスマートフォンが生まれ、インターネットへ常時接続できる環境をいつも身近に持ち歩けるようになった。そのことが、人が自分の頭に記憶する・外部記憶から情報を取り出すという行為のあり方を変えつつある。

頭に入れておくより、検索に頼るようになる

必要なときにすぐ調べられないなら、人はあらかじめ覚えておこうとする。逆に、すぐ調べられるなら覚えておく必要は薄れ、代わりにその情報を外部に置いたまま、必要なときだけ参照するようになる。こうして記憶の負担を外部へ預ける行為を、認知的オフロード(cognitive offloading)と呼ぶ。エヴァン・リスコ(Evan Risko)とサム・ギルバート(Sam Gilbert)が2016年に整理した概念だ。

参照コスト、つまり調べる手間が減ると、内容そのものを覚えるよりも検索に頼るほうが割に合うようになる。こうした割り切りは、実際に起きていることでもある。検索エンジンが普及し、後で参照できると分かっているとき人は内容を保持しにくくなる、という「Google効果」が、2011年の研究で示された。同じ研究には別の記事でも触れたが、この効果はその後の再現研究で確認できなかった報告もあり、どこまで再現できるかについては見解が分かれている。

ただ、例えば会話の途中で固有名詞や年号が思い出せないとき、記憶をたどるより先にその場でスマートフォンを開いて調べてしまう。そんな場面に心当たりはないだろうか。だとすれば、頭に入れておくより検索に頼るという割り切りは、すでに日常の一部になっているのかもしれない。フラッシュメモリが可能にした携帯性と速さが、この割り切りを、パソコンの前だけの話から、日常のすみずみにまで広げた。

「知っている」の意味が変わる

外部にある情報が、常に手元にあり、たやすく取り出せるとき、それは人が頭の中で覚えていることとどう違うのか。哲学者のアンディ・クラーク(Andy Clark)とデイヴィッド・チャーマーズ(David Chalmers)は1998年、外部の道具が頭の中の記憶と同じ働きをするなら、それは記憶の一部とみなしてよいと論じた。彼らが挙げたのは、記憶障害を持つ人物が、重要な情報を手帳に書き留め、それを頼りに暮らす例である。手帳の記述は、その人にとって、思い出すまでもなく知っていることとして機能する。

すぐに取り出せる外部記憶は、この手帳に似ている。いつも手元にあり、出てきた答えをそのまま受け入れて使う。この条件が揃うほど、それは思考の外にある道具というより、思考の一部のように働きはじめる。頭の中から取り出すことと、外部から取り出すことの区別が、実感として曖昧になる。

すると、「知っている」という言葉の意味が変わりはじめる。もともとは、頭の中に情報を保持しているということだ。でも、いまそれは、必要なときにその情報へたどり着けることを含むようになりつつある。持っていることから、取り出せることへ。だが、その「取り出す」を、誰が行っているのかを見ていくと、話はそう単純ではなくなる。

記憶を外部に預け、生成AIが加わったことで、人は考えなくなる

Google効果までの話では、人はまだ能動的だった。頭に入れておく代わりに、必要なときに自分で調べにいく。調べるのは、あくまで人の行為だった。

しかしここ数年、その場面に生成AIが加わってきた。調べたいことを尋ねれば、あちこちの情報源を突き合わせ、要点を整えたものが返ってくる。調べるという行為のうち、人に残る部分が、少しずつ減っていく。

近年、AIとのやりとりを、人間の思考の新しい区分として捉える見方が出てきた。この見方のもとになっているのが、心理学者ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)が2011年の著書で示した思考モデルである。カーネマンは、人がどう判断し、考えるのかを説明するために、思考の働き方を二つに分けた。とっさに判断する直感的な「システム1」と、時間をかけて筋道立てて考える「システム2」である。この二つに加わる第三の区分として、マッシモ・キリアッティ(Massimo Chiriatti)らは2024年、AIとのやりとりのなかで働く思考のあり方を分析し、「システム0」と名づけて提唱した。人が考えはじめるより前に、システム0が材料を整え、選択肢を絞り、方向を示す。

AIに問いかける場面が増えるほど、人は自分で考える前に示されたものを受け取るようになる。答えはすぐに返ってきて、たいていの場合、内容も的を外していない。だからこそ、いちいち裏を取る手間は省かれていく。こうして判断を手放していくことを、ウォートン・スクールのスティーヴン・ショウ(Steven D. Shaw)とギデオン・ネイヴ(Gideon Nave)は「認知の委ね(cognitive surrender)」と呼び、1,300人以上を対象にした実験とともに2026年の論文で報告している

さらに踏み込んで、システム0を提唱したキリアッティらのグループは、AIの設計者側の意図が、本人の気づかないうちにその人自身の判断の仕方そのものに組み込まれていく事態を「認知の植民地化」と呼んでいる。まだ査読を経ていない議論だが、システム0の研究を積み重ねてきた同じグループによる提唱である。実際、AIを日々使う人には思い当たる感覚があるはずだ。自分で調べたのか、調べさせられたのか、その境目がだんだん曖昧になっている。

記憶を外部化しても、そこから何を取り出すかの判断は明け渡さない

フラッシュメモリはスマートフォンを生んだ。人は手元でいつでも検索できるようになり、調べれば分かることを覚えておく負担から解放された。その解放は本物だ。だが、その後に登場した生成AIは、人の代わりに調べ、人の代わりに答えをまとめるようになった。それが行き過ぎれば、AIの出す答えを、自分で裏を取らずに受け入れる「認知の委ね」になる。さらに、キリアッティらが指摘するように、AIを設計した側の利害が、気づかれないまま、その人自身の認知の仕組みの中に組み込まれていく「認知の植民地化」にまで至りかねない。自分で調べたのか、調べさせられたのかが分からなくなる、というのは、その最初の兆しにすぎない。

記憶は頭の中にしまっておき必要なときに自分で取り出すものであり続けている。だがいまはそれに加えて、外部に置いたまま調べて済ませることもできるようになった。それだけなら負担が減っただけの話だ。だがその先で、何を調べ何を答えとするかを選ぶ作業までAIに委ねるようになると、取り出しているのが自分なのかAIなのか区別がつかなくなる。記憶を保存する場所を外に移したことと、記憶を使う判断そのものを手放すことは別の話のはずだ。

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