「マミーブレイン」は本当に記憶力の低下なのか

産後の女性の多くが記憶力の低下を訴える。だが客観的なテストには差が表れない。「記憶力が落ちた」という実感が捉えているのは、別のものかもしれない。

「マミーブレイン」は本当に記憶力の低下なのか
Photo by Hu Chen / Unsplash

51人の専門職女性が記録したもの

1986年、神経学の学術誌Acta Neurologica Scandinavicaに一本の論文が載った。ハーバード大学医学部の神経学者、チャールズ・M・ポーザー(Charles M. Poser)らが調査したのは、医師、心理学者、看護師、管理職など、専門職に就く女性51人。妊娠中の彼女たちのうち約3割が、物忘れ、見当識障害、読解の困難といった認知機能の不調を報告していた。論文はこの現象を「benign encephalopathy of pregnancy(妊娠中の良性脳障害)」と名づけた。

専門職の女性たちが対象だったことは、偶然ではないだろう。彼女たちはおそらく、自分が何を覚えていて何を忘れたかを職業上の必要から日々観察していた。だからこそ、普段なら意識に上らない小さな認知の揺らぎを症状として記述できた。

「物忘れが激しくなった」「頭がぼーっとして言葉が出てこない」など、出産前後にそうした感覚を覚える女性は少なくない。日本ではこれが古くから「産後ボケ」と、少々乱暴な言葉で呼ばれてきた。だが、それが医学的・科学的に論じられ始めたのは、女性が職に就くことが一般化し始めた時代背景と無関係ではない。産後の女性が職場に戻るようになって初めて、「以前と同じように頭が働かない」という体験が「問題」として可視化されるようになった。家庭のなかで育児に専念していた時代には、産後の認知的な変化はそのまま育児への適応として受け入れられていたかもしれない。職場という、認知の変化があらわになる場が生まれることで、当事者も周囲もその変化を「認知の低下」として認識するようになる。ポーザーが調べた専門職の女性たちは、その変化を最初に言語化できる立場にいた人々でもあった。

「産後ボケ」が「マミーブレイン」になった

「産後ボケ」という言葉は、2000年代に入ったころから「マミーブレイン」という英語由来の表現に置き換わっていった。その転機の一つは、2005年に翻訳出版された一冊の本だった。アメリカのジャーナリスト出身の作家、キャサリン・エリソン(Katherine Ellison)の『The Mommy Brain: How Motherhood Makes Us Smarter』が、『なぜ女は出産すると賢くなるのか 女脳と母性の科学』(SBクリエイティブ)として刊行された。原題が示すとおり、この本の立場は「母になることで脳は賢くなる」というポジティブな再解釈であり、当時の動物実験を踏まえた神経科学の議論を一般読者に伝えるものだった。

「マミーブレイン」という言葉は、エリソンの本を一つの契機として育児メディアやSNSを通じて広まっていった。だがその受容は、本が持っていた肯定的なニュアンスとは切り離されていた。言葉だけが流通し、中身は産後に脳が萎縮して認知が低下し、やがて回復するというイメージで受け取られていった。「産後ボケ」が素朴に含意していた「一時的に頭が働かなくなること」を、新しい言葉が引き継いだまま現在に至っている。

これは日本だけの話ではない。英語圏でも"mommy brain"はネガティブな含意で広く定着しており、2023年にはJAMA Neurologyに掲載された論文のなかで研究者たちが「この言葉自体を見直すべき時だ」と公に主張するに至っている。エリソンの本が込めたポジティブな再解釈は、英語圏においても必ずしも浸透しなかった。

MRIで脳を直接観察する研究は、2017年に始まった

ポーザーの論文以降、1990年代を通じて、妊娠中の女性の記憶や注意を客観的な検査で測定する研究は積み重ねられていった。だが結果はばらつき、一貫した像は見えてこなかった。被験者数の少なさ、対照群の取り方、用いた認知課題の違いなど方法論的な要因が結果を左右し、「妊娠が記憶を低下させるかどうか」という単純な問いにすら決着はつかなかった。いずれも認知機能を測るテストであり、脳そのものに何が起きているかを直接観察するものではなかった。

そうした観察研究はさらに遅れた。妊娠期の女性が安全上の配慮から臨床研究の対象から除外されてきた歴史があり、同じ人の脳をMRIで継続的に追うという発想は技術的にも倫理的にもなかなか実現しなかったためだ。

転機は2017年だった。エルスリン・ホークゼマ(Elseline Hoekzema)らがNature Neuroscienceに発表した論文は、妊娠前と産後の脳を同一人物で比較した、初めての本格的なMRI研究だった。結果、灰白質(神経細胞が密集する脳の組織)の体積が社会的認知や共感に関わる領域を中心に減少し、その変化が少なくとも2年は持続することが示された。研究チームは「妊娠が人間の脳の構造に与える影響はこれまでほとんど未知だった」と書いている。それほどこの領域の空白は大きかった。

この論文を皮切りに、研究は積み重なっていった。2024年にはUCアーバイン・UCサンタバーバラの研究チームが、神経科学者エリザベス・クラスティル(Elizabeth Chrastil)が自身の妊娠を縦断追跡(妊娠前から産後まで同一人物を継続して観察する手法)した精密研究をNature Neuroscienceに発表した。2025年にはバルセロナ自治大学(UAB)のチームが100人以上を対象にした大規模縦断研究をNature Communicationsに発表し、妊娠期に大きく変動するエストロゲンの動きと、灰白質の変化のタイミングが一致することを初めて実証した。脳の変化がホルモンによって駆動されている可能性を示唆する所見だ。

これらの変化は「萎縮」と表現されることが多く、認知の低下を意味するものとして語られがちだ。だが研究者たちの解釈はやや異なる。変化のパターンが青年期に起きるシナプスの剪定、つまり不要な神経回路を除去し、より効率的な回路へと最適化させるプロセスに類似していることから、認知の低下ではなく「再編成」に近い現象と見られている。UABのオスカル・ビジャロヤ(Oscar Vilarroya)研究ディレクターは「脳が明らかに再編成されている」と述べ、母親において記憶などの認知的低下の証拠は見られなかったと強調している。

この再編成の目的は、母親として赤ちゃんに適応するための「最適化」であると考えられている。2017年のホークゼマらの研究や、2025年のUABによる大規模調査において、妊娠中から産後にかけての灰白質の変化が、産後の赤ちゃんに対する愛着の強さや敵対心の低さと明確に関連することが実証された。つまり脳は、赤ちゃんのわずかな表情や泣き声のサインを素早く読み取るために、限られたリソースを選択と集中によって再配分しているのである。

記憶を低く見積もる、その意味

脳の変化が「再編成」だとすれば、それでもなお「記憶力が落ちた」と感じる当事者の実感は、何を意味するのか。

モナシュ大学のエドウィナ・R・オーチャード(Edwina R. Orchard)らがJournal of Women's Healthに発表した2022年の研究は、興味深い結果を示している。産後1年の母親と出産経験のない女性を対象に、客観的な認知テストと、自分の記憶力への主観的な評価を両方測定した。言語記憶や作業記憶など複数の客観的テストでも差は認められなかった。にもかかわらず、母親は自分の記憶力を有意に低く評価していた。

だが研究はもう一歩踏み込んだ。母親のグループでは、自己評価と客観的な成績のあいだに連動が見られたのである。記憶がよくできた日は自分でもそう感じ、うまくいかない日には自分でも低く評価していた。出産経験のない女性にはこの連動がなかった。つまり母親は、全体的には低めに評価しているものの、自分の記憶の調子の変化をより正確に感じ取っていた。研究者たちはこれを「より正確に把握している(in-tune)」状態と表現した。

なぜそうなるのか。育児の中では、小さな記憶の失念が具体的な結果に直結する。例えば、薬を飲ませ忘れる、泣いている原因が思い出せないといったことだ。そうした環境に置かれることで、これまで意識せずに済んでいた認知のわずかな揺らぎが意識に上るようになる。

つまり「記憶力が落ちた」と感じることは、必ずしも記憶力の低下を意味しない。それはむしろ、自分の記憶に対する感度が上がっている状態かもしれない。ポーザーの研究で認知の不調を最初に言語化できたのが専門職の女性たちだったように、母親もまた、自分の認知を細やかに観察せざるを得ない立場に置かれている。

実感が捉えているもの

妊娠中に脳が再編成されることは、もはや否定できない事実だ。妊娠中に大きく変動するホルモンが、その変化と深く関わっていることも明らかになりつつある。

だが、当事者が「記憶力が落ちた」と感じる体験と、客観的な認知テストの結果との間には、依然として「距離」がある。この距離は科学の未解明な空白というよりも、客観的な測定ではこぼれ落ちてしまう人間の認知の繊細さを示しているのかもしれない。

UCサンタバーバラを拠点とするMaternal Brain Project(MBP)が画期的なのは、まさにこれまで置き去りにされてきた「女性たちの主観的な実感」と「脳の物理的変化」を真正面から結びつけようとしている点にある。チャン・ザッカーバーグ・イニシアティブの支援を受け、スペインの研究チームとの国際共同研究として進むこのプロジェクトは、1000人規模の縦断的な神経画像データベースを構築する試みだ。

MBPを率いる神経科学者のエミリー・ジェイコブス(Emily G. Jacobs)博士は、2023年の論文で「1990年代以降に発表された5万件以上のヒトの脳MRI研究のうち、女性の健康に特化したものはわずか0.5%未満に過ぎない」と指摘している。これまで科学は、女性の脳研究を圧倒的に不足させたまま、客観的な数値に表れない主観的な不調を「気のせい」や「単なるホルモンの乱れ」として片付けがちだったのだ。

つまり、当事者の実感と科学の間に残る「距離」は、MBPのような研究の登場によって今まさに問い直されようとしている。

「マミーブレイン」という言葉は、かつては「産後ボケ」の言い換えとして、認知の低下を意味するものとして広まった。しかし今、研究が明らかにしているのは別の像だ。脳は劣化したのではなく、再編成された。「記憶力が落ちた」という実感が正確に何を捉えているのかは、まだ答えは出ていない。だが科学は今、その問いを真剣に受け取り始めている。

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