好きな人の顔が思い出せない現象を、『MFゴースト』の一場面から考えた
好きな人の顔ほど、思い浮かべようとすると像を結ばない。長年、自分だけの経験だと思っていたこの現象を、漫画『MFゴースト』の一場面をきっかけに追いかけてみた。同じ経験をしている人が他にもいた。
会えない時間に、顔がぼやける
恋愛感情を抱く相手ができると、その人の顔を思い出せなくなる。ひとりの時間に目を閉じて思い浮かべようとすると、顔全体がぼんやりとかすんで細部をまったく思い浮かべられない。そんな経験に心当たりはないだろうか。
周囲の何人かに「そういうことはないか」と尋ねたことがあるが、共感してくれる人は一人もいなかった。自分だけなのだろうかと思いながら、その不思議さがずっと頭の片隅に残り続けた。
その経験を、正面から「説明」してみせる場面に、最近になって出会った。
見たものを忘れない男が、初めて写真を撮った
しげの秀一の漫画『MFゴースト』の15巻に、その場面はある。
(2026年8月現在、アニメ化されているのは11巻序盤まで。アニメのみを追っている方はネタバレにご注意いただきたい)
主人公の片桐夏向(かたぎり・かなた)は、日本人の父とイギリス人の母のあいだに生まれ、イギリスで育った青年である。母は画家で、一度見たビジュアルを鮮明に記憶する能力を持ち、その能力は息子にも受け継がれている。母の死後、父を探して来日した夏向は、鎌倉の西園寺家に下宿しながら、MFGと呼ばれるレースにドライバーとして参戦している。西園寺家には高校生の娘がいる。名は恋と書いて、れんと読む。
15巻で描かれるのは、夏向が7歳のときの回想である。母は幼い息子に、友達の顔を正確に思い浮かべられるかと尋ねる。簡単だと答える息子に、母は告げる。大人になって恋をしたら、誰かの顔をうまく思い浮かべられないときが必ず来る。「恋をすると人間の脳はね…相手の顔を思いうかべようとする試みを妨害するの」。思い出せないと不安になる。不安になるとすぐに会いたくなる。いつでも愛する人の顔を見ていたくなる。それが恋をしているときの脳のメカニズムなのだ、と。母自身、夏向の父に恋をしたときがそうだったという。
では、息子である自分の顔はどうなのか。尋ねる夏向に、母は思い浮かべられると答える。世界でいちばん愛しているのはあなたで、それは争う相手がいないほどだ。しかし、それは恋とは違うのだ、と母は言う。
回想シーンの後、夏向は心の中で亡き母に語りかける。母の言ったことは本当だった。日本に来て、初めて写真を撮った。一人の女の子の顔を、どうしても鮮明に思い浮かべられなかったからだ。一度見たものを忘れないはずの彼が、である。そして夏向は、自分が西園寺恋に恋をしていることを自覚する。
見たものを記憶できる人間が、思い出せないという経験によって自分の恋を知る。そして記憶の欠落を、写真という記録で埋めようとする。この場面は、かつて覚えたことのある感覚と重なって見えた。
思い出せないのは、自分だけではなかった
同じ経験をした人がいないか調べてみると、ネット上にいくつも見つかった。当事者の体験談、恋愛心理を解説するコラム、真偽の怪しいスピリチュアルな説明。玉石混交の中に、興味深い記事もあった。
ライターのアレクサンドラ・モロトコウ(Alexandra Molotkow)が「Why Can't I Remember My Crush's Face?」というエッセイを書いている。彼女もまた、好きな人ができるたびに、その顔がどうしても思い浮かべられないという経験を長年抱えてきたという。この現象は、ただ苛立たしいだけでなく、どこか落ち着かない気持ちにさせる。夢を思い出そうとしたり、夢の中で電話番号をダイヤルしようとしたりするときの感覚に近い、と彼女は書いている。何年もの間、これは自分だけの問題だと彼女も思っていたという。友人の誰からも、同じ経験を聞いたことがなかったそうだ。ソーシャルインターネット以前は、この手の感覚が話題に上ることすらなかったのだ、とも綴っている。周囲に尋ねても誰にも共感されなかったのは、無理もなかったのかもしれない。
このエッセイがリンクしていたQuora上のやり取りにも、興味深い回答があった。回答者のジーノ・ラスムッセン(Xeno Rasmusson)氏は、心理学と神経科学の博士号を持つ研究者だ。彼はまず、「顔を思い出せない」という言い方には2通りの意味があると指摘する。会ったときに顔を認識できないという意味と、頭の中で自由に顔を思い浮かべられないという意味だ。後者は「自由想起」と呼ばれ、単純な「認識」よりもずっと難しい作業だという。そのうえで、非常によく見慣れた顔でさえ思い浮かべにくいことがあると指摘し、結婚15年になる妻がすぐそばにいても、頭の中に彼女の顔の正確なイメージを描くのは難しいと述べている。
思い浮かべる作業は、そもそも誰にとっても苦手だ
ラスムッセン氏が指摘した「認識」と「自由想起」の違いは、認知心理学における基本的な区別のひとつである。目の前にあるものを記憶と照合するだけの認識と、手がかりなしに記憶から情報を生成する自由想起は、別の仕組みだとされている。選択式のテストと記述式のテストのようなものだと考えると分かりやすい。
選択肢の中から正解を選ぶのは簡単だが、何も見ずに白紙へ答えを書くのは難しい。顔を見て「知っている人だ」と分かる認識は、目の前にある実物の顔と記憶を照らし合わせるだけで済む。しかし、一人で思い浮かべようとする自由想起のときは、目の前に顔そのものがない。記憶だけを頼りに、ゼロから顔を組み立てなければならない。だからこそ、自由想起はそもそも人間の脳にとって不得手な作業なのだ。
ここから先は裏付けのない想像にすぎないが、こう考えることもできそうだ。友人や同僚の顔を頭の中でわざわざ思い浮かべようとすることは、普段ほとんどない。しかし、好きな人の顔だけは意識的にも無意識的にも繰り返し思い出そうとしてしまう。だから、まるでその人の顔だけが特別に思い出せないように感じられるのではないか。
気持ちは少し晴れたが、メカニズムは謎のまま
なぜこの現象が起きるのか、はっきりした答えは見つからなかった。モロトコウも、なぜ起きるのかは未解決のままだ、と書いている。それでも収穫はあった。同じ経験をしている人はどうやら少なくないらしい。それが分かっただけで、長年抱えていたもやもやが少し晴れた気がする。
『MFゴースト』にあの場面を描いたしげの秀一も、どこかでこの感覚に触れたことがあったのだろうか。実証されたメカニズムではなくとも、多くの人が知らず知らず共有してきた経験を、「記憶」という要素としてフィクションの形に落とし込んだのかもしれない。
そもそも、母や夏向が持つという、一度見たら忘れない記憶力自体、科学的に実証されたものではない。それでも、この存在しない能力を土台に据えたからこそ、恋だけがそれを崩すという対比が際立ち、物語として強く記憶に残る場面が生まれた。証明されているかどうかとは別のところで、想像力は現象の輪郭を、時に科学よりも鮮やかに描き出す。