思い出すたびに上書きされる:理化学研究所が嫌悪記憶の再固定化経路を特定
理化学研究所の研究グループが、嫌悪記憶が想起されるたびに脳内で再書き込みされる神経回路と分子経路を初めて包括的に明らかにした。
記憶は「読み出し」のたびに上書きされる
記憶は一度定着すれば固定されたままだ、と思われがちである。しかし実際には、記憶は想起されるたびに一時的に不安定な状態となり、その後あらためて固定し直される。この現象を「再固定化」と呼ぶ。
再固定化は、脳が記憶を最新の状況に合わせて更新するための仕組みだと考えられている。例えば、ある場所でスズメバチに刺されたとする。でも、その場所で楽しい経験を重ねれば、その場所に紐づく恐怖の記憶は徐々に塗り替えられ、薄れていく。
ただし、再固定化は記憶を弱める方向にだけ働くわけではない。ストレスを抱えた状態で嫌な記憶を思い出すと、その記憶はより強く刻み直されることもある。
こうした現象は経験的に知られていたが、脳内でどのような回路と分子が関わっているのかは、十分に解明されていなかった。
再固定化を担う一本の分子経路が見えた
理化学研究所脳神経科学研究センターのジョシュア・ジョハンセン(Joshua Johansen)チームディレクターらの研究グループは、ラットを使った実験により、嫌悪記憶の再固定化を担う神経回路と分子機構を明らかにした。成果は科学誌『Neuron』に2026年3月3日付で掲載された。
研究グループが注目したのは、脳幹にある「青斑核」だ。青斑核はストレスホルモンの一種であるノルアドレナリンを脳内に放出する主要な核であり、記憶や感情と深く関わることが知られている。
光を使って特定の神経細胞の活動を制御する「光遺伝学法」を用いた実験で、恐怖などの嫌悪記憶の想起中に青斑核の活動を抑制すると、再固定化が起こらないことが確認された。青斑核の活動は、記憶の形成や想起そのものには影響せず、再固定化に特異的に必要であることが示された。
さらに研究グループは、青斑核から放出されたノルアドレナリンが、恐怖記憶の形成と保存に関わる扁桃体の特定のニューロンに存在する「β2アドレナリン受容体」を介して作用することを突き止めた。この受容体の発現を抑えると、再固定化が阻害された。
加えて、「CRTC1」と呼ばれる転写因子コアクチベーターが、記憶の想起に応じて細胞質から細胞核へと移行し、再固定化に必要な遺伝子発現を促すことも確認された。β2アドレナリン受容体へのシグナルが途絶えると、このCRTC1の核移行も起こらなかった。
一連の実験から浮かび上がったのは、青斑核→ノルアドレナリン放出→扁桃体のβ2アドレナリン受容体→CRTC1の活性化→遺伝子発現という、再固定化を担う一本の分子経路である。研究グループはさらに、記憶を想起する直前に軽度のストレスを与えると、この経路を通じて再固定化された記憶が強化されることも示した。
「記と憶」の視点:忘れられない記憶を、どう扱うか
この研究が特に意義を持つのは、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のような疾患との関連においてである。PTSDでは、過去の恐怖体験が何度も鮮明によみがえり、そのたびに記憶が強化されるという悪循環が生じると考えられている。今回明らかになったβ2アドレナリン受容体やCRTC1の経路は、こうした悪循環を断ち切る治療標的になりうる。
一方で、記憶が想起のたびに書き換え可能な状態になるという事実は、別の問いも呼び起こす。記憶の再固定化を操作することは、治療であると同時に、記憶そのものへの介入でもある。何を覚えていて、何を忘れるか——その境界を技術が動かせるようになるとき、私たちはその選択をどのような原則のもとで行うのだろうか。