「忘れられる権利」と、消えてほしくない記録

「忘れられる権利」とは記録を消す権利ではなく、アクセスを遮断する権利だ。しかしその遮断は、同じ記録を必要とする別の誰かにも影響を及ぼす。

「忘れられる権利」と、消えてほしくない記録
Photo by Martin Lostak / Unsplash

ネットが「自然な忘却」を壊した

インターネットが普及する以前、社会には「自然に忘れられる」仕組みが備わっていた。地方紙の古い記事は図書館に足を運ばなければ読めず、数十年前の逮捕歴は当事者の周囲にしか知られていない。過去の出来事にたどり着くためには手間や時間がかかった。情報にたどり着くまでのコストが、社会的な忘却を事実上担保していたのである。

ネットはそのコストをほぼゼロにした。名前を検索エンジンに打ち込めば、20年前の報道が一瞬で表示される。逮捕歴、若気の至りの発言、昔の交際相手との関係を示す記述、若い頃に参加したコミュニティや団体の活動記録。どれも「記録として存在した」ことは変わらないが、以前ならアクセスしにくい場所に沈んでいたものが、突然、誰でも手の届く場所に浮上した。

こうした事例は自分には無縁だと感じる人も多いかもしれない。しかし十数年前に書いたブログの記事、炎上してすでに謝罪済みの投稿、忘れたかった交友関係の痕跡──そうした「黒歴史」が検索結果の上位に残り続けることは、誰にとっても起こりうる。

「忘れられる権利」という概念が本格的に議論されるようになったのは、こうした変化への応答である。2014年、EU司法裁判所は、スペイン人男性がGoogleに対して1990年代の債務記録に関する記事へのリンク削除を求めた訴訟で、個人には一定の条件のもとで検索結果からの削除を要求できる権利があると認めた。この判決は「忘れられる権利」を承認したものとして世界的な注目を集めた。

ただし、この判決が命じたのは、Googleの検索結果からリンクを除外することであり、元の新聞記事を消すことではなかった。記事はスペインの地方紙のアーカイブに今も残っている。削除されたのは、記録そのものではなく、そこへのアクセス手段だった。

検索結果から消えることの効果は小さくない。多くの人にとって「存在しないも同然」になるからだ。しかし記録と、記録への到達可能性は別のものである。「忘れられる権利」とは、記録を消す権利ではなく、アクセスを遮断する権利なのだ。

記録へのアクセスは、公益性と情報の重さで決まる

アクセスを制限することで情報を実質的に不可視化する、という発想は、インターネット以前から社会制度として存在している。

図書館の閉架書庫に収められた資料は、司書に申請しなければ手に取れない。公文書は一定の年数が経過するまで非開示となる。裁判記録には傍聴席から見えない部分があり、少年審判は非公開で行われる。これらはいずれも「記録はある、しかし誰でもアクセスできるわけではない」という設計である。

「忘れられる権利」は、こうした既存の制度的アクセス制限の延長線上にあるとも読める。ただし、決定的に異なる点がある。従来のアクセス制限は、国家や機関が制度として管理するものだった。「忘れられる権利」は、個人が自らの判断でアクセスの遮断を要求する権利として構成されている。

では、どのような場合にその要求が認められるべきか。判断の軸は大きく二つある。一つは、情報の公益性──誰に関する情報か、という問いだ。政治家や企業経営者の過去の言動は、社会的な説明責任の観点から、本人が望まなくとも参照可能であり続けることに正当性がある。一方で、一般市民の個人情報の公益性は、事件の関係者や証人といった場合を除けば、高くないことが多い。

もう一つは、情報そのものの質的な重さである。犯罪歴や重大な不祥事は社会的な意味を持ちうるが、十数年前に書いた稚拙なブログ、炎上してすでに謝罪済みの投稿、あるいはかつての交友関係──こうした情報は、当事者にとっては切実でも、社会的な記録としての意義はほぼない。それでも検索結果の上位に残り続けることがある。「忘れられる権利」が現実的な問題として多くの人に迫ってくるのは、むしろこうした「軽微だが消えない」情報においてである。

この二つの軸、つまり公益性と質的な重さを組み合わせると、判断のグラデーションが見えてくる。公益性が高く重要な情報は残されるべきで、公益性が低く軽微な情報は遮断を認める余地がある。問題はその中間にある広大なグレーゾーンで、そこには明確な答えがない。

日本の裁判所が示した「天秤」の基準

2014年の判決を契機に、EUでは2018年施行の一般データ保護規則(GDPR)第17条において「消去の権利」として明文化された。日本では「忘れられる権利」は法律として明文化されていない。しかし、それは議論がなかったということではない。

2017年、最高裁判所はGoogleの検索結果から過去の犯罪歴の削除を求めた訴訟で、初めてこの問題に判断を示した。最高裁は「忘れられる権利」という言葉を使うことを避け、「プライバシーに属する事実を公表されない法的利益」の問題として処理した。そして削除の可否は、情報の性質や内容、被害の程度、当事者の社会的地位、記事の目的、時間の経過といった諸要素を天秤にかけて判断すべきだとした。この事案では削除は認められなかったが、「利益が明らかに優越する場合には削除を求めることができる」という基準が示された。最高裁が検索エンジンに対して厳しい条件を課したのは、Googleのような検索エンジンを「インターネット上の情報流通の基盤」として重視したためである。

2022年には、同じく最高裁が、過去の逮捕歴に関するTwitter(現X)投稿の削除を認める判断を下した。最高裁は、Twitterへの投稿は速報的な性質を持ち、長期間閲覧され続けることを想定したものではないと指摘した。情報流通の基盤として重視される検索エンジンとは異なり、削除のハードルはより緩やかに設定された。いずれにせよ日本では「一律に認める・認めない」ではなく、個別の状況に応じた判断が積み重ねられている。

権利として明文化されていないからこそ、天秤の基準はいまも揺れ動いている。

消したい側と、残してほしい側

「忘れられる権利」を考えるとき、私たちはつい申請する側の立場に立って考える。過去の失敗を消したい、若気の至りを検索結果から消し去りたい、という欲求は理解しやすい。しかし、この権利にはもう一つの側面がある。

誰かが「忘れられる権利」を行使するとき、その記録に関係する別の誰かがいる。職場でハラスメントを受けた人が、加害者の名前を検索しようとしたとき、その記録がすでに遮断されていたとしたら。自分が経験した出来事の痕跡が、相手の申請によって不可視化されていたとしたら。「忘れられる権利」は申請者だけのものではなく、同じ記録に関わるすべての人に影響が及ぶ。

公益性と情報の軽重によって判断のグラデーションがある。しかしその判断は、記録の「消したい側」の視点から設計されている。記録を「残してほしい側」の視点は、制度の中に十分に組み込まれているだろうか。

記録は誰のためにあるのか。現在の本人のためか、現在の社会のためか、それとも、同じ記録を別の角度から必要としている誰かのためか。「忘れられる権利」をめぐる議論は、まだその問いに向き合い切れていないように見える。

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