飲み過ぎて記憶をなくしても、脳は「無傷」なのか
アルコールは脳細胞を壊すのではなく、記憶の形成そのものを止める。「酔って覚えていない」の神経科学的メカニズムと、飲酒が脳に残す長期的な影響を考える。
「覚えていない」のに家には帰れた
飲み過ぎた翌朝、前の晩の記憶がすっぽり抜けている。そういう話を聞いたことがある人は多いだろう。二次会以降の会話も、帰りの電車も、靴を脱いでベッドに入ったことさえも覚えていない。ところが周囲の証言では、ふつうに喋り、笑い、駅の改札を通り、家までたどり着いていたという。
記憶がないのに行動はできていた。この矛盾に、飲酒と記憶の関係を解く鍵がある。
結論を先に言えば、飲み過ぎた夜に起きているのは「記憶が消えた」のではなく、「記憶がそもそも作られなかった」という事態である。アルコールは、脳のなかで新しい記憶を形成する仕組みそのものを一時的に停止させてしまう。
海馬で何が起きているのか
記憶の形成において中心的な役割を果たしているのが、脳の深部にある海馬という領域だ。日常の出来事や体験、いわゆるエピソード記憶は、まず短期的に保持された情報が海馬を経由して長期記憶へと転送される。この転送プロセスを「記憶の固定化(consolidation)」と呼ぶ。
アルコールが大量に摂取されると、この固定化のプロセスが妨げられる。しかし、そのメカニズムは「アルコールが脳細胞を破壊するから」ではない。
2011年、ワシントン大学医学部の和泉幸俊(Yukitoshi Izumi)らの研究グループは、The Journal of Neuroscience誌に発表した研究で、そのメカニズムを明らかにした。海馬の神経細胞において、記憶の基盤となるのは「長期増強(Long-Term Potentiation, LTP)」と呼ばれる現象で、これはニューロン間のシナプス結合が繰り返しの刺激によって強化される過程を指す。LTPが起きることで、ある体験に関連する神経回路が強固になり、記憶として定着する。
和泉らがラットの海馬の切片を用いて調べたところ、高濃度のアルコールに曝されたニューロンでは、このLTPが阻害されていた。注目すべきは、アルコールがニューロンを殺傷したのではなく、NMDA受容体(N-メチル-D-アスパラギン酸受容体)という、グルタミン酸の信号伝達に関与する受容体に作用した結果だという点である。
アルコールはNMDA受容体の活動をおよそ半分に低下させる。ここまでは以前から知られていた。しかし和泉らの発見は、残りの活動を維持しているNMDA受容体が「逆説的に」活性化され、それがニューロン内で神経ステロイド(とくにアロプレグナノロン)の産生を促すという点にあった。この神経ステロイドがGABA受容体を増強し、結果としてLTPの誘導を妨げる。つまり、アルコールは直接的に記憶を消すのではなく、ニューロン内部で産生されたステロイドを介して、記憶が形成される条件そのものを奪っていたのである。
共同研究者のチャールズ・ゾルムスキ(Charles F. Zorumski)は、ワシントン大学のニュースリリースでこう述べている。「アルコールは私たちが検出できるかぎりにおいて、細胞を損傷してはいない。情報処理はなお行われている。麻酔されたわけでも、意識を失ったわけでもない。ただ、新しい記憶が形成されなくなっている」。
ブラックアウトとブラウンアウト
アルコールによる記憶の欠落には、程度の異なる二つのタイプがあることが知られている。
一つは「エンブロック・ブラックアウト(en bloc blackout)」と呼ばれるもので、ある時点から数時間にわたって記憶がまったく形成されない状態を指す。他者からの手がかりを与えられても、その間の出来事を思い出すことはできない。まるで、その時間が存在しなかったかのようになる。
もう一つは「フラグメンタリー・ブラックアウト(fragmentary blackout)」で、俗に「ブラウンアウト」とも呼ばれる。こちらは記憶の欠落が断片的で、「島」のように残っている記憶と、欠落した時間とがまだらに混在する。翌日に他者から話を聞いたり、環境的な手がかりに触れたりすることで、一部の記憶がよみがえることもある。
米国国立アルコール乱用・依存症研究所(NIAAA)によれば、フラグメンタリー・ブラックアウトのほうがはるかに一般的であり、エンブロック・ブラックアウトはより高い血中アルコール濃度で生じる傾向がある。いずれのタイプも、呼気アルコール濃度が0.06g/dl以上にならなければ発生しないとされるが、多くのブラックアウトは0.20g/dl前後で報告されている。
重要なのは、ブラックアウトはかつてアルコール依存症の患者に特有の現象と考えられていたが、現在では健康な若年成人にも広く見られることがわかっている点である。ある調査では、飲酒習慣のある大学生の約半数がブラックアウトを経験したことがあると回答している。
なぜ身体は動き続けるのか
記憶が形成されていないにもかかわらず、飲酒中の人が歩き、会話し、電車に乗り、家に帰ることができるのはなぜか。
これは、アルコールが主に妨げるのがエピソード記憶の形成であり、他の種類の記憶や認知機能は比較的保たれるためである。
たとえば、歩く、階段を上る、改札にICカードをかざすといった行動は、「手続き記憶」と呼ばれるタイプの記憶に基づいている。手続き記憶は海馬ではなく小脳や大脳基底核が主に担っており、アルコールの影響を受けにくい(ただし運動機能そのものは酩酊とともに低下する)。
また、短期記憶(ワーキングメモリ)もある程度は機能し続ける。目の前の会話に反応したり、「次の駅で降りよう」と判断したりすることは、数秒から数分の情報保持で可能である。ブラックアウト中の人が周囲からは「ふつうに」見えるのは、このためである。
ただし、ワーキングメモリで処理された情報が長期記憶に転送されないため、翌朝になるとその場でのやりとりは何ひとつ残っていない。情報が入ってきてはいたが、どこにも保存されなかったわけだ。
飲酒後に記憶が定着しやすくなるという逆説
アルコールと記憶の関係には、もう一つ興味深い側面がある。飲酒が、飲む「前」に学んだ情報の定着をかえって促進するという研究結果である。
2017年、エクセター大学のセリア・モーガン(Celia Morgan)らは、88人の社会的飲酒者を対象にした実験の結果をScientific Reports誌に発表した。参加者は単語学習課題を自宅で行ったあと、一方のグループは自由に飲酒し、もう一方は飲酒しなかった。翌朝のテストでは、飲酒したグループのほうが前日に学んだ単語をよく覚えていた。しかも、飲んだ量が多いほど、翌朝の成績は良かった。
モーガンはこの結果について、「アルコールが新しい情報の学習を妨げることで、脳がすでに取り込んだ情報の固定化により多くのリソースを割ける状態になるのではないか」と説明している。海馬が新たな情報の符号化を行えなくなると、代わりに直前に学んだ記憶の統合に「切り替わる」という仮説である。
この現象は「逆行性促進(retrograde facilitation)」と呼ばれ、実験室内では以前から確認されていたが、モーガンらの研究は、それが自然な飲酒環境でも成り立つことを初めて示したものであった。
長期的なリスク
もっとも、この知見は「勉強のあとに酒を飲めば記憶力が上がる」という実用的な含意を意味するわけではない。飲酒後の新たな情報の記憶は損なわれるうえ、繰り返しの大量飲酒は海馬そのものを萎縮させるリスクがある。2017年のオックスフォード大学とロンドン大学の共同研究では、30年間の追跡調査の結果、アルコール摂取量が増えるほど海馬の萎縮リスクが上昇することが確認されている。
さらに2025年9月、オックスフォード大学などによる約56万人を対象とした最新の大規模研究は、「少量の飲酒なら脳の健康に良い」というかつての通説を明確に否定した。遺伝的データを活用して因果関係を検証した結果、「適度な飲酒が脳に良い」と見えていたのは、実は認知機能が低下し始めた人が酒量を減らしていただけ(逆因果)だったことが判明した。アルコールは「たとえ少量であっても」摂取量に比例して着実に認知症リスクを高めることが判明したのだ。
記憶が作られなくなるという一時的な現象の背後には、記憶を作る器官そのものが損なわれていくという長期的なリスクが潜んでいる。酔った夜に「何も覚えていない」ことを笑い話で済ませられるうちはいいが、それが繰り返されているとすれば、脳はすでに小さなリスクを積み重ねている。